洋画壇時評 三つの展覧会

 ノバ展の一般的な世評を私は度々耳にしたが、大体この展覧会に就いては「余りパッとしない展覧会だ」といふ評判が多かつた。パッとしないとか、問題でないとかいふ、批評はノバ展の場合、他の展覧会の評と同一に考へられないもの、造型展あたりに比べても、成程この展覧会は子供つぽいところが多いし技術の叩きあげにも年季がかゝつてゐないし、作品も不揃であることは、認めないわけにはいかない。然しながら私は日本の最も「若い画家」(年齢といふ意味許りではない)の新進気鋭の意味の発表場所として是非この種の展覧会の一つ位あつても良いと考へてゐる。「発表機関」これは少いより多い方が良い。自由な発表といふことに何も遠慮をする必要がないだらう。要はその作品の質にあるし、この展覧会の方向にあり、作品発表の自由性にある。アンデパンダンを何処かで企てゝゐるといふ話もきいたが、今の処ノバあたりでアンデパンダン的意義を極度に発揮して欲しいと思ふ。
 だが、一寸こゝで皮肉を言はして貰へば、この展覧会にかぎらず画家はあまり、カンバス屋と絵具屋に許り儲けさせるのもどうかと思ふ。私はこの際ノバ展辺りでもむやみに油絵具を画布の上に消費することをやめて、絵具を節約して良い絵を描いて出品して欲しい。絵具節約論をこの際、この展覧会に限らず多くの展覧会の出品者に希望する。
 個人評を二三試みれば、鶴岡政雄の三点「移転」「偶像」「リズム」このうち「移転」は引つこしを書いたものだが私はかうした傾向や「リズム」などから、さつさと作者は移転して欲しい。「移転」は描く対象の常識的理解を一歩もでゝゐない。如何に描写の奇をねらつても、結局覗つてゐる処は一般的なところに落着いてゐる『リズム』は丸、三角、螺線、あらゆるものを横長く組合せたものであるが、その画は右から左に走るリズムであつても、観る者へ何のリズミカルなものを訴へてゐないそれよりも『偶像』の仕事を支持したい。この作家の一番問題となるものは、この人の抱いてゐる色といふものに対する美学的な立場である。あの色をもつてリアリズムの色とするのは賛成できない『美しい色』といふことの素朴な理解に一度立つて、更に真実の美の色を創造してほしい。赤や青を軽蔑する画家は永久に救はれることがないだらう。
 寺田政明 この人はかうしたリアルな傾向で一時代、絵の技術的方面をやつたら、それこそ弊履を捨てるやうに斯うした傾向を捨てゝ、リアルな作風でゆくべきだ。自分の才能が惜しかつたら、リアリズムをとるべきで、画壇では、立派な、良い才能をもちながら『写実』(広義な意味で)を軽蔑してゐるために、その人の良い才能を殺してゐる人が実に多いことは残念である、寺田の絵は描く対象に就いての『感動のしかた』が実に芸術家的である点、材料がプロレタリア的なものである点、しかし『貝殻』『イカ』『ランプ』『馬の骨』とか一つの題材に少し執着しすぎる、執着することは仕事が観念的になつてしまふ前触のやうなものである。大いに一作毎に、負けるか勝つかの丁半賭博的飛躍をやつてほしい。この人の才能はさうした飛躍をやつても間違がない『おたまじやくし』を賞めたい。この絵には見た眼がきれいでも、色の常識的選択に終つてゐる。ただこの絵の動きに野心的なものがあつて好ましい。
 靉光……といふ人の小品『裸婦』『馬』『人物』など何か錦絵風な筆法や『馬』では古来の『絵馬』を思はせる。ただこの人は線の稚拙さといふことに甘えすぎていけない。技術をもつてゐる人であるから、強ひて稚拙に描く必要がない。アンリー・ルッソーの稚拙さは、決して稚拙さを売り物にしてゐない切実さがあつて良いので文字の世界では、ノイリップといふ小説家があつて、ルッソー的素朴さに共通するものがあるが、技法の稚拙といふことは、たとへそれを方便とするとしても良くない児童画をよく画家が参考にしよく子供の技法をとり入れてゐる人があるが、大人のくせに、子供より下手に書く必要が少しもないだらう。靉光の場合のこの稚拙さは、主として作者の心理的なものからきてゐるが、心理的なものつまり世界観の問題としても、かなり意義がある。第一作者は若い人である筈だ、年齢的若さの究極的な発揮、この一本槍で押していつたら、年をとれば完成されるといふことになるのではあるまいか。この作者は心理的世界に於いて老いこみたがるのは良くない。『裸婦』の方がずつと屈托のない自由な作意が見えて良いし、この作家が自己の独特なものをつくりあげようといふ熱意には無条件に賛成である。

   白日会展

 笹岡了一……の真面目な態度は美しい。『二人の裸婦』は画面の裸婦を明るさ、つまり白で締めて効果を出してゐるに反して今一方の裸婦『無題』の方は暗さで画面を締めてゐる。画のやかましい技術の上で見たならば、あるひは前者の明るさで締めたものゝ方が絵らしいかも知れないがこの作家の将来の大きな路は後者にかゝつてゐる。この絵の陰影で締める効果はよくこの作家の哲学的質を生かしてゐる。線や形や構図に観るものに押しつけがましいもの『つまり特対性を』与へてゐない点が、この作家の偉さである。そして我々をこの態度にしたしませる、敷物や裸婦の描法に動的なものがあることは現実の動きと一致して見てゐて効果的である。ただこの作家に不明瞭なものゝ解決を『二人の裸婦』のやうな明瞭さに到達し解決しないで『無題』から一歩前進してほしい。
 永井武夫……白日会の中から近代人は誰れかと選んだら私は永井武夫を指す、この近代性はちよつと他の展覧会にこの人ほどに、健康な近代性をもつた人は珍らしい。実際いふとこの位の近代性はすべての画家がもつてゐるのがあたりまいであるがそれがない。他の人々はあまりに伝統的であり伝統打破に臆病である。永井武夫の事物の把握の明確さ(正確さとは又別の意味である)は非凡なものがある、まとめ上げの美しさもあれほど出来る人は洋画家には少ない(日本画にはずいぶんゐる)作家は仕事を大切にしてほしい、そして主題も大いに野心的になれないものかしらと思ふ。僕が保証する大いに我儘な行き方で自由なテーマを選んでほしい。
 網小島廉……白日賞に『座像』がある。これは会で奨励の意味での賞をこの人にやつたのであれば難がない、だが画そのものとして見る場合には、かなり問題がある。殊にこの座線の描法の誇張は正しい行き方ではない。与へられた画面を画家が使ふことは自由である。だが芸術をする余地といふものは、画面精一杯大きく描くといふことにはならない。馬鹿々々しく大きく女の手足や尻を描くといふことは、現実の誇張と、物の真実の追求とごつちやに考へた考へ方で『座像』はもう一息一廻り大きく描くと、滑稽感に落つこちてしまふだらう。芸術上の誇張あるひは異常なるものに就いては、私は意見を抱いてゐるがこれは次の機会に書かう。絵の線や形の外面的な拡がりや拡大はその描かれた線に極限されると同時に、観るものにその線の制約の中に内容的なもの実質的なものを見ようとする。つまり量は拡大されたが質がないといふことになる。それは画家が描くには熱心であつても、結局現実を逃避してゐるといふ結果に陥つてゐることになる。よく縁日で子供達が買つてゐるものに綿飴といふ白いボッと大きくふくれたのがあるが、あゝして質の充実しない外劃的な大きさのみがある作者にはもつと真面目な行き方を望む。
 伊倉普……はスケールの大きさをとる。しかしスケールの大きさは物事を決してアイマイにするといふ意味であつてはいけない。全体の雰囲気の落漠さと作者の抱いてゐる宇宙観の大きさと一致した場合には、そのボッとした大きさのまゝで切実な高調された実感を与へる筈であるが、そこにはそれが欠けてゐる。それは作者伊倉の仕事の仕方が厳粛であるだけ残念なことである。
 三宅策郎……『火にあたる男』は良い詩をもちながら、彼は描写上の常識性と戦から熱意が欠けてゐることは惜しい。この絵はとりも直さず、在来芸術の保守性への追従を語るものである。この作者はこの絵だけをみて決定的といふことを避けたいもつと実力発揮のできる作者である。
 斎藤正夫……の静物からは芸術的感性の高さを感じた。この人は自己特有の絵全体に流れてゐる人間的なデリケートさを失はぬやうに次の仕事を進めてほしい。
 荻原英一……『貝殻山の崖』は崖の断面の貝殻層を描いたものでテーマは珍らしく面白いが、題がついてゐるから貝殻と見えるものゝ題がなければ貝殻とは見ることが不可能である。花は紅、柳は緑といふ形容の中には、事実の一般性や、普遍性を説明したものがありこの常識的な真理は決して芸術家が馬鹿にしてはいけない。一見して貝殻を見せるといふ最も端初的な処から、更にさまざまな貝殻を描き出す目的が発生し仕事が続けられるまた逆にふかい描写の意図が、誰にも判る一般性へ落着いたとき、始めてその絵の深さや特殊性がかんじられる。牛と馬との区別をつけることを看却しては、永久にその絵から牛と馬との区別をひきだすことができないだらう。荻原の場合もつとリアルに(観る者に親切さを出して)描いてくれたら、もつと涯かに高度に、断層に幾世紀を経た貝殻の存在、曾つて海であつた処が山になつたといふ時間的な不思議な自然の摂理を語る絵ができたであらうと思ふ。近来我々素人がみて、形状の正体のまるつきりわからぬ絵が少くないので、遂こんなことを述べる気になつた。第一画家の中には、批評家や、画家仲間に見せるのを目的に制作してゐる人が少くないが、画家の数は多いといつても知れたものであるし、広く一般大衆へ見せるものであるといふ、絵画家の立場を取るべきで、この親切さは、平凡な絵を描くまいとする苦痛が伴つてほんとうに気持の良い努力ではないかと思ふ。

    春台美術展

 観に行つたとき暗くなりかけてゐたので落着いてみられなかつたので残念であつた。
 武良俊明……『埋葬』は漁師達が死せる漁師を埋めようとする悲哀の情景を描いた大きな作であるがこゝに集まつてゐる漁師達の顔に興味をそゝられた、そして相当に漁師特有の表情を捉へ得てゐる。しかしそれは主として漁師の顔の骨格的なものゝ追求によつて必然的に作家が描き得た特有さであつて、一度これらの漁師的な顔が、一人の人間が死にこれを土に埋めるといふ最大の悲劇を前にして如何なる人間的感情をこの『埋葬』に描き得てゐるかといふことを吟味してみると、まだまだまだ作者の感情は甘い、甘い、といはざるを得ない。
 柳瀬俊雄……『有段者』『黄衣婦人像』などをみると、一応腹の出来た人といふ感じがする。『有段者』では柔道家の立姿である短躯前方を見つめてゐる。この柔道家の意志的な強さといふものは描けてゐるが、僕の考へる理想的有段者といふものは、あゝした人物の硬直と謹厳のみが有段者の全部でないのではないかとおもふ。柔よく剛を制すといふのが有段者(所謂戦ひの名人)の態度ではないかと思ふ。この『有段者』には柔の面が少ない。僕は作者柳瀬俊雄の創作態度にも、柔よく剛を制す――といふ言葉があるといふことを知つて貰ひたいことをのぞめば僕の批評は足りる。
 星野雅弘……『冬日』この作品の良し悪るしを言ふのではないが、冬の日を描くとき彼は冬の日の空気といふものをよく捉へてゐる。具体的に言へば冬日の空気を画家が色として画布の上に移し得た巧みさをとる。しかもその雰囲気とか、空気とかいふものゝ描写に際しては、よく画家はこれらのものは『漠然たるもの』といふ風に理解し、またそのやうにボッとしたものとして描きたがる人が多いが、それが大間違であつて、いかなる難かしい雰囲気にせよ、画面を我々が見たとき、作者の心理的説明を立派につけ、具体的に説明されてゐるものでなければいけないと思ふ。言葉をかへて言へば真白の色から真黒の色に移るまでには、幾多の数かぎりない段階、階程、過程とかいふものがあるわけだ。それを心理的に見ようとせず逃げてはいけないといふ意味である。この冬日にはその努力がなされてゐるので絵は余り好きではないが、良い努力だと考へた。

    片多徳郎遺作展

 春台展での片多徳郎遺作展は僕を感動させた。殊に少女を描いた白い『裸婦』に就いては、私のやうな若輩の批評を絶対にゆるさないものがあるから、一言もいはない。ただ一言多くの画家諸君に進言したいことは、画家といへば助平の代名詞のやうに世間では考へてゐる折柄、婦人に就いてあゝした崇高な理解をもち得る人は何人あるだらうかといふことである。片多徳郎の、白い『裸婦』の前で婦人即性慾を見てゐる多くの助平画家は頭を垂れたらいゝ。それからもう一言、春台展では片多徳郎、丹野次男、平田千秋の三人遺作展をやつてゐるが、それも非常に良いことである。だが一般の画壇にのぞむことは、なるべく才能のある画家は生きてゐる間に団体として好意をみせるのがほんとうで、本人にしても死んで花実が咲くものかであるし、死んでから、急に才能を発見して騒ぎたてる傾向があるから、生きてゐるなら生きてゐる間に良い作家の真実の価値を大衆に示すやうに団体として努力すべきだ。

底本:『新版・小熊秀雄全集第五巻』創樹社
   1991(平成3)年11月30日第1刷
テキスト入力:小林繁雄

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